先見の明を持っていたラスベガス・サンズとサンズ・チャイナの創業者、シェルドン・アデルソン氏が非ホジキンリンパ腫との長い戦いの後、2021年1月11日に永眠した。IAGはその素晴らしいキャリアと消えることのない遺産に注目する。
シェルドン・アデルソン氏は、アメリカンドリームを叶えた人物だ。借家で眠っていた幼少期から、ザ・ベネチアンとコンベンション主導型ビジネスモデルによってラスベガスに革命を起こし、その道のりの中で巨万の富を築いた。ほとんどの人にとってはそれで十分だろう。しかし、ラスベガス・サンズのこの創業者はアジアでさらに目を見張る第二幕を作り出した。
アデルソン氏は70代と80代の間に、マカオが、彼が呼ぶところの「怪しげなよどみ」から世界トップのカジノ観光地へと変身する動きを先頭に立って引っぱった。その結果マカオはラスベガス・ストリップのゲーミング粗収益を大きく上回るまでに成長した。その変身は、アデルソン氏が発案したコタイ統合型リゾートハブを中心に展開した。シンガポールでは、アデルソン氏は業界で最も称賛され、そしてほとんどの期間、最も大きな利益を生み出したマリーナベイ・サンズ(MBS)を開発した。アジアが、アデルソン氏を人類の歴史の中で最も早いスピードで豊かにし、21世紀ゲーミング界の主役へと昇り詰めさせ、米国とイスラエルで政界の実力者にさせた。

控えめなスタートから、2020年には資産268億米ドルでフォーブス長者番付の28位にランクインした。2019年の大半の期間、彼を欠場に追い込んだ非ホジキンリンパ腫との闘いを生き延び、86歳で復帰した。
グローバル・マーケット・アドバイザーズの政府担当ディレクタ ー、ブレンダン・バスマン氏は「アデルソンさんは、LVSがマカオとシンガポールでライセンスを得るずっと前にすでにゲーミング業界での地位を固めていた」と述べた。バスマン氏はLVSで同じポジシ ョンを務め、過去にサンズで働いたことのある、または現在働いている多くの人と同じく、創業者のことをアデルソンさんと呼ぶ。「彼はラスベガスにあったパラダイムを根本から変えました」。
マリーナベイ・サンズのオープンを取り仕切ったトーマス・アラシ氏は、アデルソン氏から以下のような言葉を掛けられたという。「 他の人と同じ方法でビジネスを見ていない。違う見方をして、どうすれば良くなるか、大きくなるか、そして価値あるものになるかを見つけ出すんだ」 。
現在マニラにあるブルームベリー・リゾーツとソレアリゾート&カジノの社長兼COOを努めるアラシ氏は、「MICE、小売などゲーミング以外の要素をかつてない規模で取り入れたシェルドンの動きは、素晴らしいほどに勇気あるものだったとしか言いようがありません。(中略)真の先駆者です」と付け加えた。

アデルソン氏の統合型リゾートのコンセプトは旅行業界での経験から生じたものだ。彼自身の見積りで、アデルソン氏はそのキャリアにおいて300もの事業を営んできた。ボストンの街角で新聞を売り歩くところから始まり、後にラスベガスとイスラエルで最も読まれる新聞を所有するまでになった。自動販売機から始まり、フロントガラス解氷スプレーの販売、その後旅行・ツアービジネスに飛び込み、数十年後には大学中退の男が、自分のデスクからアジアの都市の商工会議所の連絡先一覧を取り出し、幹部たちにグループセールスの専門的な講義を行うまでになった。
ベガス最大
展示フロアスペースの値上げに心奪われたアデルソンは、自身にはコンピューターの使用経験がなかったにもかかわらず、1980年代までベガス最大のMICEイベントであったパソコン業界の見本市『Comdex』を立ち上げた。しかし、アデルソン氏は、ストリップのホテルから受けた扱いに腹を立てた。アデルソン氏は「彼らの最大の顧客」であったにもかかわらず、インタビューの中でホテルの契約について不満をもらした。その契約とは、例えば大きなボクシングの試合など他のイベントが入った場合、ホテル側が予約をキャンセルする権利を留保しており、会議参加者の代わりにギャンブラーが部屋に泊まることができるというものだった。そのような経緯でアデルソン氏は1988年、かつてフランク・シナトラおよびラット・パックの隠れ家であったサンズホテルを1億2,800万米ドルで買収した。
アデルソン氏はサンズ・エキスポ&コンベンションセンターを建て、2番目の妻であるイスラエル人の医師、ミリアム・アデルソンと行ったベニスへのハネムーンから着想を得て、ザ・ベネチアンの建設を命じた。
「ミリアムと彼は、多くの業界人が懐疑的な目を向ける中で、前へと進みました。彼らはボールから目を放すことなく、あらゆる場面においてプロジェクトチームの全員の背中を押してくれました」ザ・イノベーション・グループの創業者で、ザ・ベネチアンのコンサルタントを務めるスティーブ・リトボー氏はそのように話した。
15億米ドルをかけ1999年にオープンしたザ・ベネチアンは、3,000室のスイートを持つストリップ最大の施設となり、2003年に1,013室の客室を持つベネチアタワー(Venezia Tower)が追加されたことで、一時は世界最大のホテルとなった。約11,000㎡の広さを持つカジノと、約46,000㎡のショッピングモールが、21万㎡のコンベンションセンターに付随していた。
爆発する火山のあるミラージュに面するザ・ベネチアンの立地が、アデルソン氏とミラージュの創業者であるスティーブ・ウィン氏との世間が知る確執に油を注いだ。粗野で気難しいアデルソン氏と、髪をびしっと整えたアイビーリーグ出身のウィン氏は、教科書のような対比を表していたが、この友でありライバルでもある2人は、両者ともにベガスの因襲を打ち破った人物で、ゲーミング民営化に強引に入り込み、現状を覆した。ウィン氏は高級路線を好み、安宿とビュッフェのビジネスモデルをひっくり返し、アデルソン氏はそのビジネスの基礎にMICEを加えた。彼らのライバル関係は太平洋にまで及ぶ運命だった。
マカオを追って
ポルトガルの植民地政権がマカオを去った1999年12月、中国に支持された新政権はカジノ自由化を提案し、スタンレー・ホー氏のゲーミング独占営業を終わらせた。最初こそ懐疑的であったものの、LVSは熱心なマカオ信者となった。ただしアデルソン氏はマカオについて以下のように話していた。「賭博場の怪しげなたまり場。そこでは、売春、犯罪、闇組織が横行していた。ゲーミング観光地には求めていないもの全てが(中略)マカオでははびこっていた」。
初期の時代のLVSのマカオでの取り組みの多くが、コンサルタントであったリチャード・スェン氏とのその取り組みへの貢献をめぐる15年におよぶ法廷闘争を通じて明らかになった。LVSはネバダ州陪審員に対して、2008年に4,400万米ドル、2013年に7,000万米ドルの報酬をスェン氏に支払ったことをアピールした。2019年3月に行われた第3審で証言を1日行った後、双方が非公開の条件で和解した。
スェン氏は、2001年7月にLVSが中国政府要人と会うのを手助けした。アデルソン氏は銭其琛副首相から、中国はこれまでよりも多くの中国本土出身者のマカオ訪問を認めるという確約を取り付けたことに驚いた。それに応える形で、LVSは中国に対して、米政府への影響力を誇示して2008年オリンピックの北京への招致に反対する議会決議を止めたと伝えた。しかし、実際のところ、投票を断念させたのはLVSではなく立法日程だった。その後、運の悪さと判断の誤りによって、アデルソン氏のマカオドリームは、断たれる間際にまで追い詰められた。
北京から戻ったアデルソン氏は、歩行や起立の姿勢を取るのが困難になる神経筋障害、末梢神経障害の症状を示した。その治療によって同氏は「少しおかしい」と話し、実質6カ月間働くことができなくなった。その期間中の2001年末、マカオのゲーミングライセンス入札が行われた。マカオで陣頭指揮を執ったのは、当時のLVS社長兼COOのウィリアム・ワイドナー氏だった。
2001年9月11日の米国へのテロ攻撃はラスベガスの収益に大打撃を与えた。そのため、LVSにはマカオが求める5億米ドルの保証金を収めるための財政パートナーが必要になった。LVSが選んだのは中国国民党の金融会社で、中国政府にとって公然の敵である台湾の国家開発銀行だった。一部の人はそれを信じ難いほどの間違いだと考えた。

授かり婚
カジノコンセッション申請者を調査するマカオ政府の入札委員会は、期間限定カジノとコンベンションモデルを持つ新ザ・ベネチアンに関するLVSの提案は気に入ったものの、その台湾のパートナ ーを拒絶した。そこでマカオの長老たちはLVSと香港の不動産王ルイ・チェ・ウー氏が新たに創設したギャラクシー・エンターテインメントとの仲を取り持った。番狂わせとして見られる展開の中、LVS-ギャラクシーチームは2002年2月、ラスベガスではより評判の高いMGMミラージュやシーザーズといった強敵を抑えて、スティーブ・ウ ィン氏とスタンレー・ホー氏のSJMと共にコンセッションを勝ち取 った。
アデルソン氏が仕事を再開した時、ワイドナー氏は彼にマカオの桁はずれの可能性について説いた。このパートナーシップ契約では、総額11億米ドルの投資が求められており、ギャラクシーがその資金を提供し、LVSが管理費とプロジェクトの30%を取得するオプションを受け取ることになった。アデルソン氏は、ギャラクシーが望むよりも早いスピードで資金消費を押し進め、そして香港の同企業はネバダ州規制当局の開示要件にうんざりした。その間、9.11後のベガスでの回復によって、LVSはマカオドリームに独自で資金拠出する手段を手に入れた。
正式なパートナーシップ契約への政府期限が迫る中、LVSとギャラクシーは別れを求めた。双方が本当に和解できなかったのか、アデルソン氏がマカオの金山の30%という条件を単に受け入れなか ったのかはもう分からない。政府職員が解決策を見つけ出そうと奮闘する中、LVSは最後の切り札を出した。
アデルソン氏は、政府職員がザ・ベネチアン・マカオのために提案した沼地であるコタイを視察した際に、このように尋ねた。「土地を案内してくれてありがとう。ただしその土地が見当たらないんだが」と。2002年、マカオの離島であるタイパとコロアンに加わった未完の埋め立て地は5.8k㎡の広さを持つ無用の長物だった。冗談は抜きにして、アデルソン氏はザ・ベネチアンだけでなく、マカオ版ラスベガス・ストリップを築くことができるコタイの可能性を見抜いていた。中にはギャラクシーとの争いの中でアデルソン氏がマカオ当局に対して影響力を持つためにコタイ開発を提案したと考えている人もいる。
折衷案
アデルソン氏の型破りなやり方と開発への野心を失うこと、または唯一の華僑のコンセッション保有者をレースから排除すること、その両方に消極的であったマカオ当局は、LVSとギャラクシーが独立して営業することを可能にするサブコンセッションという方法を見出した。単独になったアデルソン氏は、期間限定カジノをサンズ・マカオに変え、2004年5月に世界最大のカジノとしてオープンさせた。ホテル客室、ジャンケットプロモーター、小売店などを持たず、値段の高いレストランが6軒あるだけのサンズ・マカオは、6カ月で2億6,500万米ドルの開発費全額を取り戻すだけの額を稼ぎ出した。20以上の銀行がそのプロジェクトに融資し、アデルソン氏の次の取引に関わろうと必死になっていた。
サンズ・マカオが、2004年12月のLVSのニューヨーク証券取引所上場に拍車をかけた。アデルソン氏は、過半数株を保持しており、その後の2年の間に彼の財産は1時間100万米ドル近い記録的なスピードで増え続けた(2008年世界金融危機が直撃した際、アデルソン氏の財産は記録的なスピードで減少したものの、LVSを生き延びさせ、ワイドナー氏の取締役会クーデターに打ち勝つために必要な10億米ドルの融資を十分に提供できるだけの富は持っていた)。
その同じ2年間に、マカオはゲーミング粗収益においてベガス・ストリップを追い越した。この元ポルトガル植民地で営業することが商業カジノ業界の持てる者と持たざる者の間に明確な境界線を引いた。シーザーズ・エンターテインメント、トランプ・カジノそしてハラーズといったマカオが栄える前の米大手ゲーミング企業たちは最終的に経営破綻した。
2007年の27億米ドルをかけたザ・ベネチアン・マカオの開業が、マカオのゲーミングパワーの中心を半島からコタイへと移動させるプロセスの口火を切った。比較的豊富な土地があったことで、ラスベガスでLVSを後押しした非ゲーミング施設のさらなる開発が可能となり、最も大きな利益を生み出すマス市場区分において他に差をつけることにつながった。130億米ドルを投資し、LVSの子会社、サンズ・マカオはそのライバル企業7社の合計数と同じ13,000室の客室、小売店800店、5つのカジノでテーブル1,300台以上とマシン5,000台、15,000人収容のアリーナ、シアター2つ、15万㎡のMICEスペースそしてヨーロッパを模した2つの街(2015年にザ・パリジャン・マカオが開業)を造った。そして3つ目となるザ・ロンドナ ーの工事が現在進んでいる。
サンズ・マカオはまた、シンガポールの誰もがうらやむマリーナベイ統合型リゾートライセンスのための国際競争において、アデルソン氏の2006年の勝利をお膳立てした。2010年、LVSは21世紀の新型統合型リゾート、マリーナベイ・サンズによってシンガポールの信頼に報いた。屋上インフィニティプールで有名なこの57階建ての都会的なアイコンがライオンシティの退屈なイメージを描き変えた。MBSには9万㎡を超えるMICEスペースがあり、マカオとは対照的にアデルソン氏の会議主導型IRモデルがシンガポールでは機能している。
ただし、マカオが中国の製造の拠点である広東省、そして世界の金融の中心地である香港のすぐ近くという立地を考えると、マカオでコンベンションモデルが失敗したことは全く重要なことではなか った。アデルソン氏の仲間は彼が言ったこのような言葉を振り返った。「1960年代にラスベガスがニューヨークとデトロイトの間にあったらと想像してみてほしい。それこそがマカオだ」。
シェルドン・アデルソン氏が亡くなった後で神聖化するのは間違いだろう。彼は厳しい指導者、強い目的意識を持った起業家として有名で、そのぶっきらぼうで不愛想な態度によって他者から慕われてこそいなかったが、間違いなくほとんどの人から尊敬されていた。
確実に先見性のある人物であり、ラスベガスを世界屈指のコンベンションの中心地へと変えただけでなく、アジアの古びたカジノ街マカオを、今日あるような紛れもないヘビー級チャンピオンへと変身させたのは彼だ。彼はほとんどの人が願うどころか、夢見ることさえできない素晴らしい人生を生きた。彼無しではマカオとラスベガス(そしてシンガポールのIR)は、今日の姿を見る影も無かっただろう。シェルドン・G・アデルソン氏が遺したものは、未来へと生き続けていく。
アデルソン氏のアジア教育
ザ・ベネチアンとコンベンション主導型ビジネスモデルをラスベガスからアジアへと輸出したことによって、多くの人がシェルドン・アデルソンという人物はアジアという地域を理解していないと考えた。そしてそれが彼を億万長者にさせた。アデルソン氏にはアジアで多くのことを学ぶ必要があったことには間違いないが、彼が学んだというしるしがある。
LVSは、2001年の入札プロセスの際、マカオのパートナーとして台湾国民党の金融会社である中国開発興業銀行(CDIB)を選び、驚くような馬鹿正直さを見せた。コンサルタントのリチャード・スエン氏は、中国共産党の敵と手を組むことに対して警告し、マカオ当局はCDIBを拒否したが、新たなパートナーシップを促すほどにLVSを求めていた。
2005年、シンガポールで入札に参加したアデルソン氏は、マカオで学んだ教訓を得ていたようだった。マリーナベイの最初の設計に対して冷めた反応を受けた後、LVSは、シンガポール政府の複数の上級職員が学んだハーバード大学アーバンデザインプログラムの部長である建築家のモシェ・サフディ氏に協力を求めた。

さらに、LVSは一部政府が出資するシンガポールのキャピタルランドで幹部を務めた経験を持つジョージ・タナシェビッチ氏をザ・
ベネチアン・マカオの建設から、現地チームの指揮を執るためにシンガポールへと異動させた。シンガポール当局にとっては、サフデ ィ氏とタナシェビッチ氏が、これまで誰も見たことがない設計に信頼性を加えた形となる。57階建ての3棟のビルが1ヘクタールの面積を持つ屋上デッキでつながったこの設計を提案したのはそれ以前にはカジノリゾートを1つしか完成させたことのない入札企業だったのだ。
販売できない
マカオでは、提案中のLVSのコタイでの住宅販売が摩擦を生んでいた。2008年8月、LVSはザ・ベネチアン・マカオの隣にフォーシーズンズ複合施設をオープンさせた。その施設にはLVSが繰り返しサ ービスアパートとして販売するつもりだと話していた300室が入った30階建てのタワーが含まれていた。しかし、完成時になって当局はアパート販売に異議を唱えた。
マカオ出身者の誰もゲーミングコンセッションを保有しておらず、他の産業は衰退していた。アデルソン氏はカジノライセンス保有者が小売りを支配する道を引っぱった。マカオのエリートたちが今なお巨額の利益を体裁よく得ることができる主要セグメントが不動産だ。さらに、多くのマカオの家族にとって、家の所有が主な資産を意味している。カジノを住宅不動産市場から締め出しておくことが、マカオの主要選挙区とって大きな問題だった。
フォーシーズンズのオープンから数週間後、世界的な金融危機によってLVSは破産のリスクに直面した。信用市場の凍結は、LVSがコタイの第5-6区画での建設を続けるための資金を借りられなくな ったことを意味しており、建設が停止したことで、何千人もの建設作業員が暇をもてあますことになった。世界的な混乱と、本土によるマカオへのビザ制限の時期が重なったことで、カジノ収益と雇用が鈍化した。それらの組み合わせがマカオにとってサンズ・マカオの2004年のオープン以降で初めて厳しい時代を作り出した。特に、住民が現地労働者の解雇を気にかけている一方で、LVSはシンガポールのマリーナベイ・サンズの建設を継続していた。マカオのプロジェクトとは異なり、こちらは前もって全額資金調達されていた。
取引不成立
2010年6月、アデルソン氏は、LVSがその子会社であるサンズ・チ ャイナを香港証券取引所に上場させ、第5-6区画の工事を再開すれば、LVSにフォーシーズンズのアパート販売させることにマカオの何厚鏵(Edmund Ho)元行政長官が同意したと話した。その条件は2009年11月に満たされたものの、何氏の後任である崔世安(Fernando Chui)行政長官は、その取引を拒否した。崔政府はコタイの第7-8区画をサンズに暫定的に与えることを中止することで対応した。その後、アデルソン氏が施設を訪れている際に行われた警察の強制捜査によって、ザ・ベネチアン・マカオで何十人もの売春婦が逮捕された。LVSが整備に1億米ドル以上をつぎ込んだと主張するコタイの幹線道路の南端に位置する土地区画を取り戻そうとする試みは不成功に終わったことが判明した。
最終的には、アデルソン氏と米国で博士号を取得した崔行政長官との間の関係は修復され、2012年のサンズコタイセントラルのオープンの際、崔行政長官とアデルソン氏は舞台上で和やかな雰囲気で話をしていた。44億米ドルをかけた第5-6区画でのプロジェクトには、さらに300室のサービスアパートが含まれており、アデルソン氏は、セントレジスプランドの下での販売を目指していた。
2013年、政府はサンズ・チャイナに対して、買主がその建物の物理的なユニットではなく企業オーナーの株式を購入するならばフ ォーシーズンズのアパートを販売できる許可を与えた。この契約は、マカオ政府観光局からのライセンス付与、販売ごとの政府の承認そして飛び込み客向けに一部ユニットを確保しておくことを義務づけた。アナリストたちは、7億米ドルを超えるユニット販売収益を予想した。

しかし、4年以上の間、全く販売は報告されなかった。2017年10月、サンズ・チャイナはサンズコタイセントラルをイギリスの首都をイメージしたテーマ型リゾートのザ・ロンドナー・マカオへと改装することを発表した。22億米ドル規模の資本投資計画の目玉だった。改装には、フォーシーズンズとセントレジスのサービスアパートをホテルスイートへと変えることが含まれており、ユニット販売活動はそこで終了した。マカオで15年以上の経験を積んだ後、アデルソン氏はついにアジアを理解し始めたようだ。
パワーカップル
巨万の富によってシェルトンおよびミリアム・アデルソン博士夫妻は米国とイスラエルで政治的に重要なプレイヤーになった。
アデルソン氏は、米民主党支持者として育ったが、同氏は2012年のウォールストリートジャーナルの論説の中で、「党が私から離れていった」と書いた。しかしながら、彼は断固としてザ・ベネチアンでの労働組合組成に反対した。民主党は伝統的に組合を支持している。アデルソン氏は裕福になって、共和党の信条である低い税率を喜んで受け入れた。
2008年の選挙サイクルから、アデルソン一家は何千万米ドルもの額を共和党候補に寄付し、2012年、2016年、2018年そして2020年のキャンペーンには1億米ドルを約束した。多くの人が、アデルソン一家が、ドナルド・トランプ前大統領が下したイスラエルの米国大使館をエルサレムに移すという決定の動機となったと見ている。
1945年に英国統治下のテルアビブで生まれたマリアム・ファーブステイン、後のアデルソン博士は、アデルソン氏の揺るぎないイスラエル支持派の姿勢の原動力として見られることが多い。しかしながら、アデルソン氏は、世界恐慌中にかろうじて食いつなぐボストンのタクシー運転手であった彼の父親が「自分たちよりも恵まれない人達」のために週に何枚かの小銭を入れていた小さな寄付用の箱とともに過ごした幼少期に自身のユダヤ人としてのアイデンティティが築かれたと考えている。
イスラエルを初めて訪れた際、アデルソン氏は父親の靴を身に付けていた。アデルソン一家は、ユダヤ人およびシオニストの理念に何億米ドルもの寄付を行った。その中には、ヤド・ヴァシェム (ホロコースト記念館)、ユダヤ系アメリカ人の若者のイスラエルへの旅をスポンサーする非営利ユダヤ教育団体「タグリット・バースライト(Taglit Birthright)」、そしてネバダの家にほど近い2人の息子が通ったイスラエル系アメリカンスクールなどへの寄付が含まれていた。
2007年、アデルソン一家は、日刊フリーペーパー「イスラエル・ハヨム」を発刊し、間もなく国内トップの発行部数を達成した。ハヨムは、極右の政治的立場を支持しており、パレスチナ国に反対し、占領地への入植を推進していた。アデルソン一家は、リクードのベンヤミン・ネタニヤフ党首を長年支持した同新聞に5,000万米ドル以上を投資したと伝えられている。アデルソン医師と最初の夫との間に生まれた2人の娘の1人、シヴァン・デュモン氏がハヨムで積極的に活動していると伝えられており、2018年アデルソン医師の名前が発行者に記載された。
2015年、アデルソン一家は、シヴァン・デュモン氏の夫で当時LVSのシニアバイスプレジデントを務め、現在は社長兼COOになっているパトリック・デュモン氏が仕組んだ取引で、ネバダ州で多数の発行部数を誇るラスベガス・レビュージャーナルを買収した。アデルソン氏の動機というのはより友好的な報道(LVSに批判的な記者の一部はこの取引を受けて退社)、そしてより大きな政治的影響力だったかもしれない。ラスベガス・レビュージャーナルは米主要紙の中で唯一2016年の大統領選でドナルド・トランプ氏を支持した。
アデルソン一家は麻薬撲滅活動にも資金を提供した。アデルソン医師は依存症治療を専門とし、イスラエルと米国にあるクリニックで精力的に活動している。長い間中毒に苦しんだアデルソン氏の最初の妻との間に生まれた長男のミッチェルは、2005年に薬物過剰摂取で亡くなった。
アデルソン氏にはその結婚で生まれた息子が2人、娘が1人いた。ミッチェルとその弟であるゲイリーは、COMDEXコンピュータートレードショーに持っていた株の買戻し価格をめぐってアデルソン氏を訴えたが失敗に終わり、その直後に大幅に高い評価額で売却した。彼らの姉妹であるシェリーの夫は、LVSで働き、離婚した後も長期間勤務し続けていた。
アデルソン氏の厳格な顔の裏には、真摯に慈善活動に取り組んだ話や、気前の良い話など、伝えられていないストーリーが山ほどある。世界的な新型ウイルスの感染拡大がラスベガス、マカオおよびシンガポールに打撃を与えた際、アデルソン氏は、世界中にいるサンズの社員は給与全額と医療保険を受け取り続けると主張した。多くの慈善活動、そして政治的取り組みの多くが有名である一方で、歴史が展開してからしか正当に評価されない可能性があるものがまだまだたくさんある。アデルソン氏は慈善活動、そして家族への愛に対する心からのコミットメントを示した人物で、世界中の多くの人々から今後も惜しまれ続けることだろう。